第5回『「松茸の匂い」をどう説明するか?』

第5回:2019年8月9日更新

 

 

著:鈴木良介
(野村総合研究所ICTメディア・サービス産業コンサルティング部、上級コンサルタント)


多種多様なセンサが大量のデータを収集し、その分析を通して様々な情報を得ようとする取り組みが進んでいるが、人間の身体も多様なセンサと、そこから様々な感情を導き出す仕組みの一種といえる。
人間の嗅覚のしくみについて東京大学大学院の東原和成教授にインタビューした内容を紹介しよう 。

匂いを人に説明することは難しい。
色を説明するときのように「赤と青を混ぜて」という説明はできず、「バニラのような」「松茸のような」といったように、比喩によって説明することしかできない。
また、ほのかに香るのであれば「良い香り」に感じるけれど、強く香ると「嫌な臭い」に感じることもある。
その境界もあいまいだ。

そもそも、人が匂いを感じるメカニズムは、視覚や聴覚といったその他の感覚と比べても複雑であり、わかっていないことが多い。
人間には匂いを認識する受容体が約400個ある。
匂いのもととなる物質は数十万ともいわれる。
匂いのもととなる物質が受容体に反応することによって、人は匂いを感じる。

やっかいなことに、一つの受容体の反応によって特定の匂いが決まるわけではない。
また、一つの物質が複数の受容体と反応することがほとんどである。
つまり、ある物質が複数の受容体と反応し、複数受容体の反応の組み合わせによって人は「ある匂い」を感じるのだ。
反応する受容体の組み合わせは無数にあり、その複雑な組み合わせの中で人はさまざまな匂いを感じ、好意的な感情や、不快な感情をおぼえる。

このような複雑なメカニズムを明らかにしようとするのが、東京大学大学院農学生命科学研究科の東原和成教授だ。
東原教授が目下取り組むのは、400の受容体と数千ともいわれる食品や香粧品の匂い原因物質の反応に関するパタンを明らかにする取り組みだ。
どのような物質に対してどのような受容体が反応するのか。
その結果、人がどのような匂いを感じ、どのような情動の変化が生じるのか。
その関係を明らかにしようとしている。

先に示したとおり、「ある匂い」は複数の受容体による反応の組み合わせによって生じる。
そのため、匂いの反応パタンを明らかにしようとすればさまざまな組み合わせを試し、それぞれがどのような匂いと感じられるのかを確認するという膨大な検証が必要となる。

どの受容体がどんな匂いの質に貢献しているかを見出すことによって、匂いの創生を効率化できる。
これまでも、香料メーカーは「高価な匂い」を「安価な物質」でつくりだす開発を行ってきたが、それは調香師と呼ばれる職人の技によるところが大きかった。
匂いのパタンが明らかになれば、職人技だけによらずに適切な匂い物質を創生しやすくなる。
その適用範囲は広い。
食品や日用品はもとより、高級感を醸し出すためのブランディングや、安らぎを感じさせるための空間づくりなどにも生かされるようになるだろう。
東原教授の研究に関心を持つ民間企業は多く、食品やトイレタリーといった各種メーカーや、リゾート産業など幅広い業界から問い合わせが来るという。

東原教授は「匂いに関するリテラシを高めることは、より豊かな生活につながる」という。
「匂いは生きているものがいるという証拠であるので、匂いが無くなることはないし、それぞれの匂いの受け止め方に個人差があることも当たり前。ちょっとでも臭いとすぐに消臭、ではなくて匂いを理解し、匂いと上手につきあっていくべきだ。」
嗅覚のメカニズムを科学的に明らかにすることは、そのような上手な付き合い方を進める助けになると期待する。

さまざまな製品の機能が成熟する中で、現地に行かなければ体験できない「コト」に対する関心は高まっている。
「匂い」はまさにオンラインでは再現できない体験の一種だろう。
体験価値を追求する中で科学的に匂いを活用していこうとする取り組みは重要になってくるのではないだろうか。

 

※コラム記事は執筆者の個人的見解であり、オムロンヘルスケア株式会社の公式見解を示すものではありません。


著者プロフィール(鈴木良介氏)

野村総合研究所ICTメディア・サービス産業コンサルティング部、上級コンサルタント。2004年、株式会社野村総合研究所入社。近年では、ビッグデータ・IoT・人工知能などのテクノロジが事業・社会にもたらす影響の検討および新規事業立ち上げ支援を行う。科学技術振興機構戦略的創造研究推進事業CRESTビッグデータ応用領域領域アドバイザー。著書に『データ活用仮説量産フレームワークDIVA』(日経BP、2015年)